UT-BASEがお送りする「後期課程の歩き方」(学部学科紹介)は、後期課程での学生生活を紹介しています。しかし、今この拙文をお読みいただいている好奇心旺盛・頭脳明晰・明鏡止水な読者の皆様は「どんな雰囲気かは分かったけど、具体的に何が学べるのだろう…?」とお思いのことでしょう。
そこで!!「学部学科紹介イカ東edition」つまり、後期課程の本学学生が学ぶ学問領域を"エンジン全開"で語り倒す企画を実施させていただきます!
一端の学部生が書いているので学問的誤りがあるかもしれませんが、学問の雰囲気を掴んでいただくことを趣旨としておりますので、どうぞ間違いには優しく目を瞑るか、そっと教えていただくよう、よろしくお願い致します。
さて、本記事は「法学部の外れ者」として有名な法学部の第3類についてです!ただの中国政治オタクの「相田」がお送りいたします。お楽しみあれ。
また、法学部の制度や学生生活は、UT-BASEの学部学科紹介ページを、第1・2類の記事は「【法学部1・2類】~Dオタ法学徒とディズニーで法律を学ぼう♪~」をご覧ください。
第3類は政治学の「王道」
突然ですが皆さん、法学部第3類(政治コース)にはどういうイメージを持っていますか?
「法学部のくせに法律嫌いの変人の集まり」って思ったそこのあなたは大正解‼ 筆者も自分でびっくりするくらい法律科目は嫌いです(笑)
丸一日中国政治の勉強をしていなさいと言われれば喜んでいつまでもやっていますが、民法とか会社法とかは目の前にお金吊るされてもやりたくありません。[編集部註:第3類でも「憲法」や「民法第1部」は必修です。]
法学部第3類はそんな「法学部の癖に法律科目を卒業要件単位最低ぎりぎりしか取っていないような政治好きのオタク」が、水を得た魚のごとく生き生きと暮らせる「砂漠」こと法学部の残されしオアシスです。
しかし、第3類は法学部の脇役ではありません。寧ろ、この東大において政治学全般を主領域として学習できる唯一の学部学科であり、傑出した政治学者を多数輩出してきた日本における政治学の「王道」です。
だけどもベールに包まれてその実態がよくわからないのも第3類です。本日はそんな第3類を筆者の学んできたことを通して少しだけお伝え出来たらなと思っています。
本題に入る前に一つだけ皆さんになによりも大事なお話を一つしておきます。ここで紹介されている第3類はあくまで筆者にとっての第3類生活です。第3類の政治学徒の多くは自らの専攻を自認し、自分の興味の赴くままに授業を選択し、研究をしています。なのでここに書かれている第3類での勉強が自分の描いていたものとちょっと違うなと思うのは当然ですし、寧ろ良い兆候です。自分の興味のある分野に全力で打ち込み、プロフェッショナリズムを持って頑張ることそのものがあなたにとっての第3類の生活になります。
他とはひと味違うあなたを第3類は待っています。
#1 政治学とは
またまた突然の質問ですが、あなたは政治学とは何を学ぶ学問だと思いますか?
今まさに日本の国会で行われていること、米中間で争ってることは勿論政治の領域ですが、国家の成り立ちや権力の在り方、選挙制度ごとに異なる効果などを研究するのも政治学ですし、マルクス主義や資本主義といった基本的な価値観を形成しているような部分を扱うのも政治学です。
因みに筆者は第3類で中国政治を歴史的経緯から学び始めました。上記に挙げたもののどれにも入ってないし、もはや歴史学ではないかと思われるかもしれませんが、一国の歴史を政治を基に紐解いていくのも政治学の代表的な手法の一つです。
「政治学が何の学問かなんて全く決まってないじゃないか」と思ったあなた、筆者もそう思います。強いて言うならば筆者は政治学とはその国の全てであり、いわゆる政治の世界とか理論の世界だけじゃなくて、その国や地域の文化とか歴史とか価値観とかを全部ひっくるめて勉強することだと思っています。
例えば、国際政治をやってるとロバート・パットナムが提唱する「2レベルゲーム」という理論がよく出てきます。国内政治と国際政治は一見並行して行われている独立した”ゲーム”にも見えるけど、実は互いに影響を与えあっていて、切っても切れない関係だよねというものです。これは、国内政治・国際政治の一方だけを分析する時も、もう一方の視点を完全に無視することは出来ないよねという、ゲーム理論の延長線上にある話になります。例を挙げると、中国の一国二制度について分析する時は、中国共産党内の権力闘争や意見だけでなく、米国や台湾との関係も見なければ筋の良い分析をすることは出来ません。
このようなことが政治学の中では良くあり、法学部の政治科目でも理論を学ぶものだけでなく、一国の歴史を政治的な視点を元に学んでいく科目(「現代中国の政治」や「アメリカ政治外交史」、「日本政治外交史」など)や、地域レベルで文化や思想も含めて総合的に学んでいく科目(「アジア政治外交史」など)が多く開講されています。理論だけではないので、初学者でも、前期課程の必修科目の政治で理論を沢山学んで政治アンチになってしまった方でも、楽しく勉強していくことが出来ます。
なお、2レベルゲームについては学部の「国際政治」、ゲーム理論については「政治学」や「経済学基礎」で学習することができます。
ここからは前期教養から後期課程への橋渡しとして、政治学の基本的な考え方であるリアリズムとリベラリズムについて、少し見ていきましょう。
#2 リアリズムとリベラリズム
リアリズム(realism)とリベラリズム(liberalism)ですが、厳密にはとても難しく多義的な概念です。しかし、ここでは最も一般的に用いられている意味である、リアリズム=「現実主義」とリベラリズム=「理想主義」という意味で取り上げてみましょう。
リアリズム(現実主義)はその言葉が表す通り、人や社会には理想だけでは語れない血生臭いところがあり、それを前提に行動を決定していこうという考え方です。よく使われる定義としては、イギリス政治思想家のホッブズのもので、国際関係は無政府状態(国家という行動主体を統制する上位主体が誰もいない状態のこと。anarchy)であり、世界は戦争が現になくても常に戦争と暴力の恐怖が潜在している状態であるとしています。なので、国家は自国の安全の確保のために政策を考え、実行しているというのが伝統的なリアリズムの考え方です。
一見、ちょっと言い過ぎじゃない?と思われる定義ですが、例えば最近[編集部註:執筆時は21年5月]のイスラエルとハマスの争いでは、イスラエル側が交戦中でなかった時から常に準備をしていたアイアンドーム(iron dome)が、ハマス側から突然撃ち込まれたロケット弾にも即座に対応できました。戦争が起こる恐怖から国防を高めてきたために自国内の被害を最小限に抑えることが出来ました。日本だって尖閣諸島問題や北朝鮮のミサイル問題に関しては自衛隊と在日米軍が24時間365日、目を光らせています。「自然状態」(ゲームスタート時点のまだ何もいじっていない状態)が「戦争状態」であるとするリアリズムの設定を是非覚えておいてください。
一方のリベラリズム(理想主義)は多元性を尊重し、互いに協力することで絶対的利得を得ようという考え方です。国際社会には色んな国があって、それぞれが異なる利益を抱えています。国内に目を向けても同様で、多元的なステークホルダーが存在し、異なる利益を持っています。このような「利益」は時に、一方を追及すると他方が損なわれるというトレードオフの関係になっていることも多くあります。
そのような世界でお互いがリアリズムに則って自分の利益確保を一番に考えて動いたらどうなるでしょうか。血で血を洗う争いが繰り返されることとなり、仲良くしていれば当然に得られた利益も得られないという結果が生まれるのではないでしょうか。「いっせーのせっ」で武器を捨て、議論を重ね、お互いの落としどころを探っていくことで初めて、誰も怪我をせずにいい結果を生むことが出来るのではないかという考え方がリベラリズムです。
ここまで見てきても分かるように、リアリズムとリベラリズムはほぼ相対する意味合いです。一方で、実際の政治においては、各国や国内の各ステークホルダーはこのリアリズムとリベラリズムの両方を用いて行動しています。ここからは具体的にどういったものがあるかを実際のケースを用いて見ていきましょう。
#3 国際政治経済学の世界では
まずは、国際政治経済学という分野でリアリズムとリベラリズムがどのように使われているかを見ていきます。そもそも、国際政治経済学はなんぞやという話ですが、国際関係における政治と経済の相互作用に着目する学問分野のことを一般に国際政治経済学(International Political Economy)と言います。
国際政治経済学において、リアリズムは権力闘争によって政治的、経済的利益を得ようとする考え方、リベラリズムは対立とその克服の相互作用によって政治的、経済的利益を得ようとする考え方です。簡単に言えばリアリズムはwin-lose(ゼロサム的)な手法を、リベラリズムはwin-win(ポジティブ・サム的)な手法のことを言っています。
例えば関税について考えてみましょう。
「他の国より得したい。」とか、「他の国が得してるのはなんか気に入らないから関税をかけて他の国にいやがらせしてやろう」とかは典型的なリアリズムです。皆さんの頭にはきっと前アメリカ大統領(第45代)の顔が浮かんだと思いますが、まさに彼の政治スタンスはリアリズムそのものです。
(Michael Vadon, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons 出典はコチラ)
「Make America Great Again」は、「他の国よりもこの国を偉大に」「これまでアメリカが失ってきた利益を取り戻す」というメッセージですが、この背景にはwinner:アメリカ loser:相手国という構図に持っていきたいという意図があることが分かると思います。中国やロシアに対して制裁関税をかけたり、実際にはしなくても「関税かけるぞ!」といって相手国の譲歩を引き出すという手法はまさにリアリズムの発想に立っています。
一方で、「みんなで仲良く関税下げて得しよう。」「みんなで規制を緩めて楽しよう。」という手法がリベラリズムです。
最近ではRCEP(Regional Comprehensive Economic Partnership)という条約がアジアの15か国で締結されました。
(写真:Newsweek「アジア版自由貿易協定「RCEP」の長所と短所」より)
他にもTPPなどもそうですし、世界に目を向ければEUやASEANといった地域共同体もリベラリズムの発想に基づく政策です。こういった条約や共同体の中では関税や障壁を下げることでwin-win関係を構築することが可能で、加盟国はその規模の大小はあるにしても、みんな利益を得ることが出来ます。みんなで仲良くしてみんなで利益を得ようというのはまさに「理想的」であると言えるでしょう。
ここまでを見てみると諸手を挙げてリベラリズムが良いと言ってしまいそうですが、本当にそうでしょうか。
関税を下げたときに他国の安い製品が大量に流入してくることで、自国内の産業に壊滅的なダメージを与えることがあります。消費者目線からすれば安くて良いものが買えるのが一番でしょと思うかもしれませんが、自分がその影響で失業するかもしれないという立場に立った時、本当にその政策を応援できますか?
また、RCEPのような一見みんなが平等に利益を得られるように見える条約も本当に「平等」なのでしょうか。同じ域内でも比較的物価が安い国、比較的競争力のある製品を作れている国が、そうでない国と比べて多くの利益を得ることが出来ます。確かに絶対的に自国の利益になるのは間違いありません。しかし、相対的に見れば他国の方がもっと恩恵を受けているということを知ったときに、果たしてその政策はあなたの国にとって本当に良いものなのでしょうか。
そのほかにも相手国が下がった障壁を利用して技術を盗んだり、いざ実行段階で一方的に規制を作ったりして裏切ったりということも現実的には考えられます。
先ほどはリアリズムをさも悪者かのように扱いましたが、自国が他国と比べて豊かになることは、現実的に自分たちの生活が豊かに、そして楽になることも示します。日本だってかつての高度経済成長期やバブルの時の生活の方が、今の多くの人が不況に苦しむ生活よりも良いと思いませんか。その時に海の向こう側の他国に遠慮して、自分たちの利益をみすみす他国に献上することは良いことなのでしょうか。
それでも自国だけ得するのに引け目を感じる人は、次のことを考えてみましょう。リアリズムの基礎にある無政府状態(アナーキー)は、支配的な国の登場を否定します。つまり、一国による一元支配を防ぐべく、各国が多元的な支配秩序を求めるのが無政府状態です。このように考えると、リアリズムは「力の均衡」の形で世界的な秩序を生み出すことも可能なのです。
関税一つをとってもリアリズムとリベラリズムは両方存在し、しかもどちらが「正しい」「優れている」といったことを決めるのは難しいのです。だからこそ、事例をリアリズムやリベラリズムなどの様々な角度から分析する国際政治経済学は奥が深く、そして面白いのです。
#4 米国の対中政策観の変化の中では
今度は地域政治の観点から米国の対中政策観の変化について見てみましょう。
米国と中華人民共和国の間の直接の関係は1972年の上海コミュニケから始まりますが、当時からオバマ政権第一期まで、米国の対中政策観は伝統的にリベラリズム的でありました。具体的には関与政策(engagement)と言われるスタイルで、中国を異質なものとして排除するのではなく、寧ろ国際社会の一員として歓迎し、共に経済発展を成し遂げて行こうというものです。その過程で、中国側も国際社会の一員であることを自覚し、人権などの普遍的な価値観を受容し、最終的には民主化を達成していくだろうという見立てが米国側にはありました。
今の米中関係を目の当たりにしている筆者たちには少し不思議に思えるかもしれませんが、当時の背景には鄧小平が進めた改革開放政策を高く評価し、今後も中国が西側への歩み寄りをしていくだろうという期待が持てたこと、リプセット仮説と一般に呼ばれている様々な国と深く相互依存関係を構築し、国民も豊かになるにつれて普遍的な権利への理解を深める中で、西側の価値観を受容することは中国共産党政府にとっても避けられないだろうという希望的観測もありました。
しかし、実際はどうでしょう。確かに中国は国際社会との関係を深め、経済発展を成し遂げました。また、趙紫陽が力を持っていた時代や、近年でも胡錦濤政権では、一部民主化が進みそうな予感を感じさせることもありました。
(写真:改革派の象徴的人物・趙紫陽総書記の死去10周年を機に考える「社会主義市場経済の限界」より。中央のメガホンを持った男性が趙紫陽。)
しかし、米国を筆頭とする西側諸国が望んだ普遍的な価値観の受容が起こるどころか、香港の一国二制度で保障された民主的諸制度を陥れ、ウイグル人などの少数民族に対しては激しい弾圧やジェノサイドが行われています(少なくとも、行われているとされています)。中央でも反腐敗運動通じて政敵を打倒し、独裁にも似た権力を確立しつつある習近平は国家主席の任期を撤廃し、安定した指導体制を整えるとともに、国内での言論思想弾圧の姿勢を強めています。(参考:中国の2018年憲法改正)そして、全体的な傾向としても、経済的に、政治的にその実力をつけるのと比例して、強い自信をもって自らの政策の正統性を主張するようになりました。
このような中国の「期待外れ」に対応するように近年の米国内で台頭してきたのが、リアリズム系の強硬的な対中政策観です。2018年の10月にペンス副大統領が行った演説が一番知られていますが、米国はもはや中国共産党のこれまでの統治も評価せず、膨れ上がった異形の大国をどう抑え込むか、如何にして東アジアの秩序を維持するかという政策にシフトすることとなりました。
米中間での先端技術の知的財産権を巡る攻防やファーウェイの排斥、香港における国家安全法やウイグル強制収容問題など、幅広い分野での対立は激しさを増しています。米国は自国の「覇権」に対する挑戦として危機感を高めているのが現状です。たとえ武力衝突の可能性は双方の核兵器所持のために考えにくい(核による「抑止」)としても、「覇権秩序」とそれに伴う利益を防衛するために、現実的な対抗政策を米国は意識的に選択するようになりました。
ちまたでは近年「新冷戦」という言葉もよく聞かれるようになっています。正確には「冷戦」構造にはなっておらず、寧ろこういったキャッチーで、かつ安易な当てはめは行うことは事態の公正な理解を妨げるため政治学としては良くないとは思いますが、一般的にも米中間の対決構造が意識されるようになってきたことは間違いありません。
現在は未だ対立の初期段階で何も結果が判明していないので、この場で米国の政策姿勢のいずれが「正しかった」かを論ずることは出来ません。しかし、筆者たちが日々目にしている数々の政治ドラマは、米国の30年以上続けられてきたリベラルな政策がリアリスティックな政策に転換したパラダイムシフトの瞬間であり、同時に人類史がまた次のページへと進んだ瞬間でもあります。このようにメディア報道などを通じてなんとなく散発的に理解してきた米中関係の変遷も、政治学の手法を導入することで分かり易く、そして興味深く捉えなおすことが出来ます。
#5 でも覚えておいてほしいこと
今回はリアリズム、リベラリズムという見方を関税、米国の対中政策観という2つのケースを用いつつ紹介してきましたが、他にも様々な見方が政治学には存在し、それらを学ぶたびに自分が目にしてきた世界をより深く理解することが可能になります。勉強すればするほど、普段のニュースや政治関連書籍に触れることが楽しくなることも、政治学の魅力の一つであると筆者は考えます。
ただ、皆さんに注意してほしいのはいずれの理論や考え方も現状「有力である」というだけであって普遍的なものではなく、後世から批判を受けたり、改良されたり、極端な場合には間違いであったと否定されることもあります。リアリズムとリベラリズムの二元論的な捉え方もそもそもが物質主義的すぎると批判され、近年では非物質的なアイデンティティや規範に注目し、「間主観性」を重視するコンストラクティビズム(構成主義)という考え方が台頭し、米国などではかなり有力なものになりつつあります。(コンストラクティビズムは、「国際政治」の講義などで学習する概念です。詳細は以下「コラム」を参照。)
大学で勉強したものが間違いだったなんてなったら残念なことになるのでは?と思う人もいるかもしれませんが、新しい学説がどんどんと生み出される新陳代謝の良い学問であることは、大学を卒業した後も自分の専門として一生学び続けられるという意味で、これも政治学の魅力だと思います。
もう一つだけ大事なことを伝えさせてください。母国と別の国の政治を勉強する際には、自国の価値観を捨て、まずはステレオタイプ抜きで対象の国の価値観や思想を理解する必要があります。筆者は中国政治を専攻している中で、日本や西側の価値観のままで見るとさっぱり理解出来ない事例を多く見てきました。その様な時に、安易に「これは中国がおかしい」と決め込むことは絶対にしてはいけません。その国にはその国の価値観があり、その国の論理や秩序の中では当然なものとして受け容れられているからこそ、筆者たちには容易に理解出来ない政策が行われたりするのです。これは人類の絶対的な価値観に則って、「ジェノサイドや言論統制はおかしいと論じるべきだ」という主張とは別次元であることをぜひ理解してください。筆者もそういった批判を結果としてすることはよくあります。しかし、まずは現地の価値観からその政策がどのように生まれたのか理解し、現地の価値観ではどのように受け容れられたのかを理解し、その上でその政策の当否を評価するというプロセスがとても重要です。
おわりに
ここまでの話いかがでしたか。少し難しい部分もあったかもしれません、しかし第3類での1年半だけで筆者はぺーぺーの初学者からここまで学ぶことが出来ました。一定の努力は必要ですが、前を行く先輩たちや先生に食らいついていけばあなたも筆者と同じ、またはそれ以上の次元で政治を語ることが出来るようになると思います。なので心配は全くいりません。
また、法律学科では自分の専攻がないことを憂いてる人が一方で、第3類(政治コース)では胸を張って自分の専攻、大学時代に力を入れてきた学問分野を語れるようになると思います(これは本当に大きな違いですよ!)。[編集部註:第1類の身からすると本当に羨ましく思えます。専攻内容は、卑近な例で言うと就活でも出て来るものなので、これがあるのと無いのでは天と地ほども違います。]
「砂漠」のオアシス第3類で、あなたも政治の「沼」にどっぷりつかってみませんか?
コラム~理論は常に正しいとは限らない~
以上では、政治の理論として、リアリズムとリベラリズムを紹介し、それがコンストラクティビズムに置き換わってきていることが説明されました。それでは、このコンストラクティビズムとは一体、どんな概念でしょう?
※難しい話なので苦手な人は読み飛ばしてOKです!
コンストラクティビズム(構成主義)を超簡単に説明すると、「我々が考える『事実』は、実は所与のものではなくて、我々皆がそう思い込むから事実である。その『事実』によって社会は成り立っている。」という考え方です。
例えば貨幣は、貨幣の物質的な価値はただの紙切れ同然です。しかし我々は、”それが具体的に「1万円」という価値を持っている”と全員が信じています。国語としての日本語も、それを全員が国語だと思い込むことによって、国語として通用しているのです。
それでは、日本円が通貨として流通し、日本語が国語として話されている地域において、そこにドルを使い英語を話す人々が大量に移住してきたらどうなるでしょう?その地域の半分の人は「円・日本語」を使い、もう半分の人が「ドル・英語」を使ったとしたら、社会が機能しなくなってしまいます。
この例から分かるように、思い込み、つまり主観の共有(=間主観性。intersubjectivity)こそが社会を作っているのです。
さて、ではどうして、リアリズムとリベラリズムは批判され、コンストラクティビズムが主張されるようになったのでしょうか?また、その後コンストラクティビズムはどのような展開をみせたのでしょうか。
冷戦期までは(ネオ)リアリズムの考えが広く使われていましたが、これらの考えは冷戦を部分的に上手く説明できないという問題があり、それに対する批判から出発したのがこのコンストラクティビズムです。
リアリズムでは、無政府状態や権力(軍事力や経済力)などを物質的、つまり所与のものとして扱っていましたが、コンストラクティビズムをその前提を疑います。つまり、コンストラクティビストは「無政府状態や権力というのは、人々(国家)がそう思い込むことによって成立しているから、その思い込みを外すことによって無政府状態から脱出できる」と考えたのです。コンストラクティビズムでは、無政府状態に代わって、規範の共有による秩序を主張しています。
一方で、コンストラクティビズムに対する批判もあります。この考え方はリアリズムへの批判に端を発していますが、よくよく考えてみるとリアリズムとコンストラクティビズムは考えのレイヤーが異なるので、完全に対になる概念とは言い難い部分があります。
つまり、リアリズムは現実の政治のゲームを説明する実証研究向けの理論である一方、コンストラクティビズムは「前提となる考え」を唱えたに過ぎず、現実の政治のゲームを説明することには向いていません。要するに、コンストラクティビズムは方法論に過ぎないのです。
この、現実の政治の力学に関心の薄いということは、コンストラクティビズムへの批判の一つです。そのような批判を受けて、コンストラクティビズムは現在、様々に変化を遂げています。
このように、理論は現実世界との関係で批判され、修正され、新設され、それがまた批判され…というように、常にアップデートが行われているのです。(※本コラムは編集部が加筆しました。)